ハプスブルク帝国の二大王立劇場として ウィーン国立歌劇場の妹として1858年に建てられた「ハンガリー国立歌劇場」 ただし、ハプスブルク家の意向でウィーンより小さく作ること。こけら落としには皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が臨席。
しかし、本家のウィーン国立歌劇場が空襲で破壊され、妹分の「ハンガリー国立歌劇場」が当時の建築を残したまま存続している。 ウィーンも、楽友協会ホールのような装飾だったのだろうな~
(『ルドルフ ザ・ラスト・キス』より)
国務大臣のベニッキー男爵が、マーラーを王立劇場に音楽監督として送った。マーラーは就任演説で、「ハンガリー人の合唱団を育てる。歌、踊り、デザイン、作曲の全てにハンガリー人の才能を引き出す」と、
1888年(28歳)ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。マーラーは秋の演目にはマジャール人を配した。年が明ける頃には、ブダペストの歌劇場は見違えるように活気づいてきた。
マーラーはがむしゃらにマジャール人たちを鍛え続けた。昼夜をわかたず「指輪」の稽古を行い、歌手や演奏者たちを脅し、かき口説き、魅了し、圧倒した。
1889年1月26日、燕尾服を着て「ラインの黄金」で 指揮棒を上げた。 舞台で火災が起きた、観客の一部がが出口に殺到したが、大音響で指揮をし、観客の恐怖を大きな音で呑み込んだ。火は消し止められ、公演は続行、マーラーは指揮棒を振り続けた。 カーテンコールで観客は総立ち。
1889年1月30日(水) 皇太子ルドルフ 自殺