ローマへ行く目的は、ミケランジェロを見たいってことだが、
システィーナ礼拝堂のミケランジェロ
ローマは2500年続く ” いにしえの都 ” そのほかにもいろいろ
ルネサンスは、老コジモたちが、ローマ教会の束縛から自分たち自身を解放しようとした運動。 しかし、ルネサンスはローマやその他のフィレンツェ攻撃と共和国の壊滅、メディチ家が貴族になったことで壊滅。
(副島本)
ルネッサンスとはアッカデミア・ネオプラトニカ(新プラトン学院、accademia neoplaonika)、新プラトン主義運動のことだ。
「人間は贖罪を持って生まれてきた」というローマ・カトリック に対して、「人間は王様による支配もなく、自由に政治や学芸について討論して、のびのび生きてよいのだ」という新プラトン主義を推し進めた老コジモとロレンツォ。 つまり、ルネッサンスの対極にあったのが ローマ。
各国から教会への上納金だけでは気がすまず、庶子や甥が領地を得る為に、露骨な干渉を始めたのはシクストゥス4世。 政治的には失政の多かったが、ローマの発展と美術・学問の振興に果たした業績は大きい。 1481年フィレンチェとの和解で、ルネッサンス画家がシスティーナ礼拝堂の壁画を描くようになった。
バチカン美術館、7・8月を除く夏の金曜日の夜、予約者だけ入場できる、すいている・1471年8月25日、ローマ教皇シクストゥス4世に就任すると、ロレンツォは、明礬の独占と、弟ジュリアーノの枢機卿位を願い出た。ナポリも明礬の販売を願い出たが、自らの明礬の生産と販売の保護を望んだ。 また1471年12月16日の枢機卿昇格人事には弟ジュリアーノは入っていない。教皇の甥でローマ知事の妻にナポリ王の娘で、ナポリに対しては王国が教皇に払う税の免除をしていた。教皇は政略結婚で買収で領土を拡大していく。ロレンツォはパッツィ家に教皇への融資の中止を懇願したが断られた。
・1474年春、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレがフィレンチェの影響下にあるウンブリアで軍事行動を起こす。他の街にも軍事行動を起こし、フィレンチェ領ボルゴ・サン・セポルクロに隣接していたので、ロレンツォは防戦に向かう。ここで、フィレンチェ、ミラノ、ヴェネチア間で軍事同盟ができ、教皇、ナポリ王との二大勢力が生まれる。
ラファエロ・リアリオ枢機卿は1478年のパッツィ家の陰謀に加担してメディチ家の打倒をはかったが失敗した。これはロレンツォ・デ・メディチとその兄弟を暗殺してフィレンツェの支配者の地位にジロラモ・リアリオをつけようとした企てであった。計画の首謀者とされたピサ大司教はシニョリーア宮殿の壁に吊るされて殺されたため、教皇庁とフィレンツェは以後2年におよぶ戦争状態に突入する
フィレンチェに対しては、赦免を遅らせ、フィレンチェの無力化を図ろうとしていたが、
1479年 ロレンツォは、ナポリ王と直接交渉するため1479年ナポリを訪問して直談判におよび講和
1480年 トルコがナポリ王国のオトラントを奇襲。教皇はイタリア内部の紛争は全て放棄して自分と共同戦線を張るように要請。」
・12月3日 フィレンチェ使節団は、教皇の前に平伏すことが許され、儀式が執り行われる。「犬のように自分が吐いたものに立ち戻らぬように」言いながら、大錫杖で各人の肩を打ちすえする。次いで教皇は自身の足に接吻することを許し、祝福を与え教会との和解を宣する。教皇はフィレンチェに対し15隻の武装ガレー船を要求。
1481年3月21日 署名捺印したフィレンツェ共和国に対する赦罪文をフィレンツェに送る。
・4月13日 フィレンツェ共和国における罪と罰の大赦を宣言。これは贖宥のことで、復活祭までに市民が6つの異なる教会で6つの礼拝に出席すれば手に入れることができる。これらの教会をキリスト聖週間の神聖なる3つの朝に訪れた者は誰でも、懺悔と告解の秘跡の後、対トルコ十字軍に寄付すれば、罪を清められるのである。フィレンツェ共和国は、教会のために15隻の高価なカタロニアのガレー船を借りて東方での戦いに送り込むことに同意。 教皇の秘書からフィレンツェ大司教リナルド・オルシーニに送られた非公式書簡には、赦罪文と共に、トルコとの商品取引を続けることを許可する文面が記されていた。木材と鉄だけは認可された取引から除外された。兵器を作るために利用される可能性があまりに高いため。
1481年夏 この頃?、完成したシスティーナ礼拝堂の壁画製作の契約をボッティチェッリ、ギルランダイオ、コジモ・ロッセッリ、ルカ・シニョレッリ、ピントゥリッキオらと結ぶ。
1481年、トルコで継承戦争がおき、オトラントへの援軍がなく、オトラント制圧軍降伏、しかし、コンスタンチノーブル奪還作戦は行われず、相変わらずのイタリア内戦。
1482年末、シクストゥス4世はヴェネツィア共和国に対してフェラーラを攻撃するようすすめている。これによって別の親族にフェラーラを治めさせる意図があったようだ。しかし、このような教皇の活動はイタリアの都市君主たちを怒らせ、同盟を結ばせることになる。
システィーナ礼拝堂:バチカン宮殿に存在していた古い礼拝堂を1477年から1480年にかけてローマ教皇シクストゥス4世が建て直させた建物で、その教皇名(伊: Sisto IV)にちなんでシスティーナ礼拝堂と名付けられた。
アテナイの学堂:ラファエロ 1509年
サンピエトロ寺院
ホテルはバチカン美術館に近いハースホテル。
どのくらい近いかというと、翌朝、ホテルの窓から見るバチカン美術館の列
朝の散歩
スペイン広場
テベレ川
サンタンジェロ城
マザー・テレサの列聖式での講話会場、世界中から信者が。
朝は行事で、寺院内には入れず、ピエタ像を見にお昼から入場
ピエタ像は入り口の右手。
ロレンツォの時代は、銀行家など有力市民と結婚していたのだが、メディチ家は、為政者と結婚して貴族号を得る
ルネサンスは、ローマやその他のフィレンツェ攻撃と共和国の壊滅、メディチ家が貴族になったことで壊滅。
・アレッサンドロ・デ・メディチが、カール5世の庶出の娘であるマルゲリータ・ダズブルゴと結婚して皇帝と親戚で公爵。共和国廃止。
・コジモ1世 ナポリ副王ビリャフランカ侯ペドロ・アルバレス・デ・トレドの長女 エレオノーラ・ディ・トレドと結婚。 〔ナポリ王国は1504年にアラゴン王フェルナンド2世によって再征服され、カスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン)へ併合された。その後2世紀の間は王国の地位も失い、「ナポリ総督管轄区」としてスペインから派遣される総督(副王)が治めた。〕
・フランチェスコ1世 神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の娘ヨハンナ(ジョヴァンナ)と結婚 トスカーナ大公に。
・フェルディナンド1世 フランス王アンリ2世の孫娘クリスティーヌ・ド・ロレーヌを妃に迎えた。
・コジモ2世 ハプスブルク家のオーストリア大公カール2世 の娘マリーア・マッダレーナ・ダウストリアと結婚。
・フェルディナンド2世 ウルビーノ公子フェデリーコ・ウバルド・デッラ・ローヴェレの一人娘と結婚
貴族トスカーナ大公 フェルナンド1世 が 1576年に 建てたローマのメディチ邸
(ロレンツォが他界したのは1492年)
皇帝ハプスブルク家の紋章メディチ家紋章
葡萄の木高台にあるのでローマの町が一望
大統領府奥はサンピエトロ寺院
公爵 皇帝と親戚
侯爵 フュルスト(独: Fürst)ドイツと連合王国のみ
イギリスにおいても、伯爵よりやや高いという程度の箔付けに使われた程度であった。
世俗諸侯(weltlicher Fürst)や、所領を有する大司教、司教、修道院などの聖界諸侯(Kirchenfürst)の総称
伯爵 Comes
Comes は、「ともに行くもの」という意味 (con「ともに」+eo「行く」) のラテン語で、君主の随行員を意味した。官僚が領地を持ったようなもの。
子爵 イングランドで使われる。ドイツ語圏にはない。
男爵 国王勅許状(Letters patent)によって与えられる貴族称号として登場してくると、Baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号