映画 嗚呼 満蒙開拓団 |
『嗚呼 満蒙開拓団』 公式サイト
「お国のため」と送り込まれた満州移民は敗戦によって、遺棄された事実のドキュメンタリー映画
日本は石原莞爾のもと、昭和6年に満州事変を起こし、満州を実質植民地としました。日中戦争時の中国の満州に対する考えは、
(引用はじめ)
「日本は満州という中国の細君と不義をして家出させてしまった。亭主としては、実に不愉快だが 心変わりした細君を追いかける氣はない。それに相手の男は喧嘩早くてちょっと厄介である。仕方なしに亭主はじっと我慢してこの不義を見て見ない振りをしている」
(引用終わり:『揚子江は今も流れている』犬養建)
万里の長城より北は、漢民族でなく満州族だったので、あまり土地に執着を持っていなかったのであろう、そして米国に洗脳された日本陸軍は、盧溝橋事件(昭和12年)から、万里の長城内に侵略を始めた。
ここから、『嗚呼 満蒙開拓団』映画パンフレット、参考に書きました。(写真は墓地)
・昭和恐慌下、繭価が一貫目12~3円から一挙に1円50銭にまで急落し、養蚕業に特化していた東日本の農山村に癒し難い爪跡をきざんだ。
・226事件(昭和11年)後、広田内閣が100万戸500万人という「満州移民計画」を7大国策の柱の一つに挙げた。
・国家による決定は、数値目標まで示されると、移民送出の圧力がかけられ、県は村役場に圧力をかける。
・満州開拓計画は、「満州事変」(昭和6年)の最中、関東軍(在満日本陸軍)によって立案された。
・ソ連 前線に近い地域に開拓団を配置すれば、道路・通信などのインフラが整備され、治安保持がにも役立ち、一旦緩急ある場合兵力の補充も可能になる。開拓団もソ連国境に近くても、最強の関東軍70万があると、自ら慰めるしかなかった。
・開拓団を迎える満州は、入植地を確保するのだが、未墾の土地は、あっという間になくなり、現地の農民の土地を二束三文で買取 日本の農民が手に入れ、現地人は小作となった。(現地人の恨みを買う)
・戦争が悪化した中で、失業者は、どんどん開拓団員となり、また本土空襲の被害者も開拓団員となった。つまり社会的弱者が開拓団となった。
・関東軍は、南方戦線へ、昭和20年5月には、満州の 3/4 地域を放棄して司令部を朝鮮国境に近い「通化」に置く事を決定。関東軍が この状況になっていても、国は、満州に移民を送った。
・関東軍の現地召集を18歳から~45歳まで広げ、開拓団は、老人と女、子供のみ。召集された男子は、戦後シベリア抑留。
・昭和20年8月9日、ソ連が怒涛のごとく攻めてきた、残された女・子供は、当然鉄道で安全なところに逃がしてもらえると思ったが、鉄道は、軍の将校、満鉄社員、公務員の順に優先された。ソ連と国境を接する現在の黒龍江省の人々は、「方正」には、関東軍がいる、軍の補給基地がもあるということで、女と老人、子供は、100kmも200kmも歩いて目指した。しかし、ソ連軍の攻撃と現地人の報復のため、一般道は歩けず、厳しい山道をあるき、子供を置き去りにしたり、また子供のために中国人の家に入る婦人たちも少なくなかった。 男性が召集され いなかったことが被害を大きくした。
・ようやく「方正」に着いても、関東軍は撤退した後で、零下40度という寒さの中で、飢えと栄養失調、発疹チフスが、人々を襲い、昭和21年春、夥しい数の婦女子の遺体が とけ出し、三日三晩石油をかけて焼いた、その数4500体といわれている。
・当時、満州にいた日本人155万人、うち開拓団27万人(17%) 満州全体の犠牲者24万5千人 うち開拓団7万2千人(30%)
映画の公式ページでは、27万人中、帰国出来たのは11万とある。
・日赤などを通じて、昭和33年まで引き上げ船の往来が続いたが、総選挙を意識した岸信介総理の反中国発言が強まり、日中貿易は、中国の強い反発で中絶し、引き上げの援護局も看板を下ろさざるを得なかった。
・昭和38年、「方正地区日本人公墓」が周恩来総理に指示で作られた、「日本の一般市民は日本軍国主義の被害者である、開拓民も被害者」であるという、 周総理の考えは、判断があり墓が実現した。
・昭和41年からの「文化大革命」のとき、紅衛兵たちは、この日本人公墓を破壊しようとした。そのとき黒龍江省政府は、「これは日本軍の墓でない、日本庶民の墓である。彼らに罪はない」と紅衛兵の要求を退けた。