『ニーベルングの指環』 |
今回は、『ニーベルングの指環』 Der Ring des Nibelungen の 話でワグナーに興味のない方は パスしてください。
私は、ワグネリアンです。ワグナーのオペラを劇場で観ると、陶酔に入ってしまうんですね。
てなことで、20年前 「ニュールンベルクのマイスタージンガー」をウィーン国立歌劇場で初めて聴いて以来、ワグネリアンになってしまいました。 と言っても、バイロイト音楽祭の「ニーベルングの指輪」のチケットを10年間かけて(10年間チケットを主催者に予約し続けると当たる)チケットを取るって程でないのですが、一度は聴いて見たいですね。バイロイトとなると、写真で見る限り、社交場って感じですね。
来年は、ウィーン国立歌劇場で、小澤征爾の後の 次期監督メスト( Franz Welser-Möst) が4部作に挑戦するようです。(オーストリアこぼれ話 )
この、『ニーベルングの指環』は、4日で14時間かけて上演するオペラで、演奏するほうも、ト書きまで暗譜するので大変です。
ちなみに楽器編成は、『ラインの黄金』で
ピッコロ 1 フルート 3 オーボエ 3 イングリッシュ・ホルン 1
クラリネット 3 バス・クラリネット 1 ファゴット 3 ホルン 8
テノール・チューバ 2 バス・チューバ 2 トランペット 3 バス・トランペット 1
トロンボーン 3 コントラバス・トロンボーン 1 コントラバス・チューバ 1
ティンパニ 2 トライアングル 1 シンバル 1 大太鼓 1 タムタム 1
鉄床 18 ハープ 6 ヴァイオリン 32 ヴィオラ 12 チェロ 12 コントラバス 8
と単純に合計しても130となってしまいます(もちろん楽器持替奏者もいるので実際はもう少し少ない演奏者数でしょうが)。
もし、あらすじやバイロイトの雰囲気を知りたいのなら
「バイロイト音楽祭2006」がいいです。
ヴォルフガング・ワグナーが、1970年 バイロイトで演出するに当たり 「ニーベルングの指輪」の思想体系をスケッチしたものがあった。
(引用はじめ:『ニーベルングの指輪 その演出と解釈』 ディーリヒ・マック著 音楽之友より)
<ラインの黄金>
自然ー神話ー愛ー権力
略奪ー憎悪ー困惑
夢と現実
取引された愛と犠牲にされた生
権力・物質主義と嫉妬
略奪
物質化された権力と呪い
事態を認識するように警告
殺害
権力の喪失に関する恐れと不安
権力維持のための新たな思想
自然の喪失を嘲笑う思慮の欠落
<ヴァルキューレ>
愛による因襲の破壊
権力思想の示威
掟と生の矛盾
自己認識と自己告白
生と権力の分裂
存在の危機による殺害
無常な殺害による権力の維持
献身的な愛による生の維持
懲罰の威嚇および掟と権力を維持するための懲罰
重荷を負わぬ自由な男への待望
<ジークフリート>
子供の養育ー重荷、無知、不敵さー権力を手にするために
過去の世界に住む者たちの問題解決への期待
生と死の間の挑発
自己意識の獲得
知識と希望の間の対決
因襲を象徴する権力の無意識的な破壊とそれによる自己実現への自由な道
ひとりひとりの独立した、愛の覚醒と獲得
自由な愛、自由な死
<神々の黄昏>
存在の神話
現実への道
権力思考とその実現への可能性
他者による権力志向に対する人格の異化
誓約とそれに基づく現存の権力社会と異端者との契約による結合
愛のエゴイズムによる救済の行為の無理解と拒否
指環による誤信された力(強さの妄想)
誓約の妄想における肉体上の優越性による指環の略奪
絶対権力の再獲得を確認
現存する権力関係の解消への始まり
被支配者と操られた民衆の面前での因襲と掟による遂行
忠誠の誓約と 誓約の忠誠に寄る影
対立しながら強制による誓約
復讐と殺害の誓い
過去の時代への回顧とその再現に対する満たされぬ希望
権力欲による文明の殺害と復讐の殺害
死における自己との出会い
不安 ー 不確かさ ー もう一つの殺害
知による認識 ー 愛の死 ー 因襲的な権力欲の挫折 ー 一つの世界の解体と没落
カタルシスとしての自然
ユートピアか それとも世界史の再現
狩り=生きていくための殺害
自己の存在と行為の告白
(引用終わり)
(参考:『赤い楯』広瀬隆)
ナチスに利用されたと言われるバイロイトであるが、
ワグナーはもともと反ユダヤだったわけではない
『幻想交響曲』でライバルとしてたつ ベリオーズ や
天才をほしいままにする メンデルスゾーン であり、
ワグナーは男の嫉妬心よりユダヤ人を悪とする思想を抱き始めた。
まだ世に出ていなかったヒトラーのはるか前に
ワグナーの野心が強烈な力でドイツの反ユダヤ主義を生み出していた。
ワグナーの楽劇で訴えたかったものは、正統な反ユダヤ主義であった。
ヒトラーは現代人よりずっと深くワグナーを理解していたのである。
ちなみに、バイロイトで、ナチに対する無知のフルトベングラー等の指揮者が
ナチスの凶悪性のため、最後には指揮を断っていったのだが、
あらゆる祭典を指揮してナチの極悪性を知りつつ のし上がったのが、
党員番号1607525のナチス国家指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンであった。
(ここまで:『赤い楯』)
たまに、レーザーディスクで『指環』を見ますが、
私が見るのは、パトリス・シェロー演出、ブレーズ指揮のバイロイトです。
その中で、Die Walküre で ワルキューレの騎行の舞台で
画家ベックリンの「死の島」の絵から取っています。
キリスト教の人々にとって、この世の死は天国での誕生日なので
ドイツ人に「死の島」の絵は、人気があるのでしょうか?
絵はさておき、シェローの演出は、<指環>がかかえている大問題は次の問題である。
他人の自由を欲すること
このことを前提にスケッチを引用します。
(引用はじめ)
「つねに黄昏を生むもの、それが国家である」(A.グリュックスマン)国家はもともと破滅を予定に組み込んでいる。と言うのも、国家はただ権力を維持することのみに腐心しているからである。
(引用終わり)
日本だけかと思いましたが、古今東西みな同じなんですね。
(引用はじめ)
<神々の黄昏>のなかでこの無自覚の自由の帰結が明らかになる。ジークフリートはきわめて特定された世界、ギービフング一族の世界に足を踏み入れ、権力と権威によって思うままに操られる。
ジークムントとは対照的に、ジークフリートは決して自分自身になりきれない。というのもウォータンには、権力を掌握し、全能な者であり続けるために、一人の無知な手先が必要だからである。
(引用終わり)
ウィーンの指環とバイロイトの指環の違いって
映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』ででてくる
オーストリア式とドイツ式のお別れの違いかな?
オーストリア式のお別れは、美人ナチスのキスで分かれる。
ドイツ式お別れは、ナチス将校に殴られる。
ウィーンの『指環』聴いてみたい