2013年 08月 08日
ナチスドイツについて ― あの時代から学ぶ教訓とは |
TBSラジオ Session-22 ネットラジオから要約文字を起こします。
ラジオの前に、プロイセンの歴史を観ると、ドイツ貴族の意外な一面が見えます。
1740年 プロイセンでは、フリードリヒ2世が即位して、啓蒙主義的な改革を活発に始め、拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などが実行された。
ここような進歩もいつの間にか逆戻り。
その後、1848年には、ベルリン3月革命は、自由主義者が憲法の制定や国民の参政権を求め蜂起。しかしながら軍隊に鎮圧。 軍隊の上級将校は、農場地主であるユンカー出身が多く、産業の発展で力をつけたブルジョアが自由主義者であった。
また62年には、プロイセン軍人事将校である、マインフェルトが自由主義者を葬るためベルリンで革命をでっち上げようとしていました。
その後、首相にビスマルクが登場。この時の憲法は、予算は国王と議会の一致がなければならないのだが、一致しない時はどうするのかが規定されていなく、自由主義を嫌っていた国王にビスマルクが取り入って軍事予算が増大していった歴史があります。
また、驚くことに、日本では、自民党憲法改正案99条には次のような文言がみられます。
「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる(後略)」
これはまさに、全権委任法(ナチス)と同じ効果を持つ、恐るべき案です。
世界首都ゲルマニア:ドイツ首都ベルリンが広く国内外で「世界の首都」と讃えられる様、アドルフ・ヒトラーがグランド・デザインを考え、建築家アルベルト・シュペーアが細部デザインを任された都市改造構想である。戦時下であっても土地収用や工事は並行して行われていた。
TBSラジオ Session-22
麻生副総裁発言に関して
「ナチスドイツについてーあの時代から学ぶ教訓とは」 東京大学教授 石田勇治教授
【ナチス政権は選挙で過半数を取っていない少数派内閣なのに巨大な権力を手にいれたか】
ナチスは、自由な選挙で過半数を取ったわけでない。(麻生発言:ドイツ国民が選んだ)
ナチスが政権を取ったあとの選挙では介入したにもかかわらず44%しか取れなかった。
32年の選挙、ナチス33% 保守党8.5% ナチスは、保守政党(産業界や農業団体の後押し)と共闘
合計でも過半数はない。議会に多数でないのにどうして政権をとったのか?
このような政党がワイマール共和国に代わりナチス政権に移行した ここが重要な こだわり。
ワイマール共和国の憲法では、首相は国会で選出され、ワイマール共和国大統領により任命。
ワイマール共和国の末期は政党が対立して多数派で連携することが困難になったこの状況で大統領が介入。
大統領は国民により選ばれるが、大統領緊急令を出せる。
当時の大統領は軍人上がりのヒンデンベルク(78)保守系の偉い人。 彼は民主主義に対して反感を持っていた。
共和国の危機のとき、自分の意に合う政治家を首相に任用する。
ヒトラーの前の3人の首相も議会に基盤がなく、彼らは民主主義憲法に反感を持っていた。ワイマール憲法の解釈改憲や無効化を狙っていた。
そして、国会での議案の可決が激減して大統領緊急令の可決が多くなる。(議会無視) ナチスもこのシステムを狡猾に利用するタイプ。
ナチスの台頭の背景。未来に対する閉塞感。原因は米国発の金融危機でドイツから資金を引き上げ、倒産、失業の激増。
対外関係もベルサイユ条約で過酷な戦後賠償金。軍備の制限、参謀本部の解散、領土の割譲で残留ドイツ人問題。 これらがドイツの足枷と思う。
内政でもワイマール憲法はすばらしいが、実際の政治は党利党略に走る政治。13年で政権交代が9回。
緊縮財政で増税でデフレにするから、国民は困窮する。国民はなんとかしてよ!
マルクス主義などもあり政治の方向性が各党全く違い融和できない。共産党から見るとワイマール共和国はブルジョア的国家。
また、共産党と社会民主党は仲が悪い。共産党は資本主義の打倒が目標だがそのためには社会民主党を叩き潰せ。(現在の日本共産党は護憲)
選挙協力ができない(議会で多数派を取れるのに) 今の反自民が維新や共産に票が流れるのと同じ。
(イタリア在住のリスナーから毎日どこかのマスコミでナチスをやっている)
ヒトラーが反ユダヤで票を得たのではなく、現状をぶっ潰す(heibay 注:小泉や維新やんけ!)先の展望はあまり言わない。
政権をとってから学者など使って国つくりを変えていく。保守党はヒトラーを飼いならすと言っていた、
それがあっという間に打ち砕かれる。国会議事堂炎上を利用した大統領緊急令、全権委任法で保守勢力の甘い思いを打ち砕く。
ナチ党は国会議事堂炎上を共産党による国家転覆の陰謀と断定、共産党国会議員を逮捕。他の共産党員を弾圧。
ヒンデンブルク大統領が民族と国家を防衛するための大統領緊急令を発布。
言論の自由、結社の自由、等の人権を当分の間という語句を入れて停止。
ナチスは共産党を潰し権力を掌握、保守党は共産党を潰すことを望んでいた。
全権委任法の前に選挙があった、この選挙が重要。全権委任法は政府に立法権を与える(普通、立法権は議会)
政府が立法権を持つことは、なんでもできてしまうこと、近代立憲主義を否定する。
憲法改正の手続きはワイマール共和国憲法では国会議員の3分の2以上の賛成。
だけど議席が取れない、なので共産党議員を収容所に入れて国会議員の資格を剥奪し、国会議員の母数を減らす。
この国会では社会民主党のみが反対。社民党党首オットー・ヴェルスの有名な演説があった。
選挙は弾圧的。 全権委任法の国会での審議の時、ナチ党の突撃隊員(補助警察という地位)が入ってくる。
ベルリンの警察権力をナチ党が握り、共産党員を逮捕、普通の取り締まりが出来なくなる。
補助警察を作り、ナチ党の突撃隊員を採用して、国会に入れるので、議員が震え上がる(共産党議員の例もあり)。
これで、国会議員の3分の2以上の賛成。国会の意味がなくなる、なんでも出来る。
麻生発言で、ヒトラーは民主主義によって議会で多数を握って出てきた いかにも軍事力で政権を取ったように思われる
全然違う ヒトラーは選挙で選ばれた ドイツ国民はヒトラーを選んだ
合っている部分と合っていない部分がある。
社民党党首オットー・ヴェルスの有名な演説「こんな横暴を許さない、君たちは必ず罰を受ける」
ヒトラーは「あなた方の票は要らない」と発言。
全権委任法は、恐ろしく、憲法に違反することが出来ると書いている。憲法そのものの無効化。
ナチスが政権を掌握すると、選挙は行われない。3~4年でヒトラーの支持は うなぎ登り。
原因には失業問題の解消。公共事業をドンドンやっていく。再軍備、減税、持ち家政策。戦争準備をする。
経済の大盤振る舞い。国の赤字はドンドン増える。軍事費は予算の半分。
それまでの、ドイツ指導者が出来なかった、ヒトラーはベルサイユ体制(外交的な制限)を突破する。
政権掌握の最初は平和主義を言っていたが、翌年34年ぐらいから覆し、35年から徴兵制。
国民はベルサイユ条約で虐められていたのに対し物を申す人が出てきた。外交的な勝利をあげていく。
英仏はベルサイユでやりすぎた負い目があった。なので融和的になっていく。
第1次大戦前には、ドイツ・オーストリアで民族自決で1つになる約束があったが、38年に実現。
それまで不可能とされていたベルサイユ体制を見事に突破した。
ヒトラーは国民が欲しがっていたものを与えたが、その中の国民でも優勢思想で排除もしていった。
大通りの終端に建つフォルクスハレ ヒトラー自身のデザインをもとにしている
【国際社会の中でのナチスの位置づけ】
国際社会でナチスを評価することは全くありえない。
ナチが支配していた時代、ヨーロッパで何が起きたかが重要。
なぜ、あんなことが起きたか。どうしたら防げるかかが、戦後の我々の課題。
ドイツでは、ナチ時代のすべてがネガティブとは考えていなかったが、
時代が代わり新しい人々の人権意識、成長があり、ナチズムが酷いものだと思うようになてきた。
70年代ぐらいから、ナチ時代は不法の時代だったという評価。国外にアピールするためにも
ナチ時代に失った国際的な信用を取り戻すためにも、ナチスのやったことの謝罪や補償をやっていく必要があった。
それを通してドイツは初めて信頼されるようになってきたと言える。
ドイツも日本と同じように、戦勝国に占領、それも4カ国(米・英・仏・ソ)A級戦犯、各地区でB・C級戦犯を裁かれる。 ただし、ドイツではドイツ刑法でもナチスを裁く。
国際社会はナチスを止められなかった、ナチスの外交を多めに見てしまった。
なので、民主主義を否定する動きがでるとヨーロッパではどこでもそれを問題にされる。
ドイツではネオ・ナチが出てくると国内的にも国際的にも問題にされる。
ドイツではナチスを肯定的に語るだけで罰せられる。
言論の自由が否定され取締りが適切かの問題がある。
しかしながら、ナチスを礼賛したり、ホロコーストの否定はナチスの礼賛。
そういう思想が広がること、極右やネオナチが喜ぶ、ドイツはそう事態を絶対に避けたい。発言の一個一個が敏感になっている。
若干のニュアンスでもそっちの方向に加担するかの表現があればそれに対し批判したり応答したりする。
そういうニュアンスの表現をしただけで、政治生命を絶たれる。
石田先生:麻生副総理の発言は軽率だっただけではすまない。本当はきちんと謝罪されたほうがいいと思う。
ナチスによりどれだけの人が酷い目にあってきたか。600万人のユダヤ人の虐殺は全体の部分でしかない。
それ以外にも多くの人が犠牲になっている。
負の象徴のような政治に対して誤解であったとしてもポジティブな語りであったとしたら、被害者の思いを馳せる。
「学ぶ」って言葉がある以上、意義を見出してるという事であるし、本音が出ているって言ってる人もいる。
安部政権はナショナリズムが強い政権が誕生したと世界の中で見られている、
それからナチスの言説は本人の意図とは別に、誤解する余地があり、どのように受け取るかだけで受け取る側の本人たちがネガティブに受取るとナイーブに燃えるような問題。 発言すべきではなかった。
ドイツでは厳しい報道があった。元首相で副総裁ということを書きながらナチを肯定的に表現した。
そして撤回したこともドイツの新聞では書かれている。
前半では、あんなドイツでもナチスが生まれたと否定しているが、ナチスの手口を学ぶというのを皮肉であれユーモアであれ言われた
そのあと、「民主主義を否定するわけでないが」が、否定される発言と取られると自覚があったのではないか。
当時のドイツと今の日本の類似点:閉塞状況は似ている。それを突破する強い政治が求められている。憲法問題は大きい。
法の支配は重要だが、ナチスの支配も「法の支配」。法を過信してはいけない。 歴史は法の過信を戒めている部分がある。
法は万全ではない。そのためには我々が見張る環境が重要。
3分の2があってもナチスが誕生したから、だから下げてもいいのか?厳しくしないといけないのか?教訓もまたずいぶん変わる。
戦後ドイツの基本法は58回変わっている、それをもって日本の憲法は1回も変わっていないというのは問題。
戦後の西ドイツには憲法がない、なぜ基本法というのか?
東西ドイツに分断されるとき、英米指導者は、ドイツに憲法を作りなさいと言うが、
西ドイツ指導者は「今、自分たちは憲法を作る状況ではない、東ドイツと分断されているので憲法を作ると分断が固定化されてしまう」
それなので「憲法」という言葉を使わずに「基本法」という法律の最も出発的なものを作ったので憲法として出発したのではない
精々、それは暫定憲法。ドイツの基本法は細かくて分厚い。日本のような大きなものではない。
ものすごく細かく、細部にいたるまでいろんなことを決めている。
もともとが分断国家がどのようになるか分からない状態で作ったのが「基本法」
だから初めから変えていくことが想定されていて、58回変えているから、それを引き合いに出して日本の憲法は変えなくてはならないとは全く異なる。
しかもこの基本法は、変えてはいけないところがある。
第1条と第20条は変えてはならない。
第1条 人間の尊厳は不可侵であり、それを擁護することは国家権力の義務である。
つまり、基本的人権を最も尊重し、すべての国家権力、行政でも裁判でもそれに縛られる。
第20条 ドイツ連邦共和国は連邦制の社会国家である。社会権がある。
基本法が出来たとき統一したときに憲法を作りましょうになっていたが実際には作らなかった。
基本法が西ドイツで十分に機能して、民主主義の案体に貢献してきた。これを統一したからと言って今さら別のものにする必要はない。
必要なところだけ変えていっている。
ナチスの教訓からだけでなく、ナチスの政治体制も含め様々な教訓。
たそがれのブランデンブルク門
(関連)
ナチス党大会跡・証拠記録センター 【2011-6-9】
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ラジオの前に、プロイセンの歴史を観ると、ドイツ貴族の意外な一面が見えます。
1740年 プロイセンでは、フリードリヒ2世が即位して、啓蒙主義的な改革を活発に始め、拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などが実行された。
ここような進歩もいつの間にか逆戻り。
その後、1848年には、ベルリン3月革命は、自由主義者が憲法の制定や国民の参政権を求め蜂起。しかしながら軍隊に鎮圧。 軍隊の上級将校は、農場地主であるユンカー出身が多く、産業の発展で力をつけたブルジョアが自由主義者であった。
また62年には、プロイセン軍人事将校である、マインフェルトが自由主義者を葬るためベルリンで革命をでっち上げようとしていました。
その後、首相にビスマルクが登場。この時の憲法は、予算は国王と議会の一致がなければならないのだが、一致しない時はどうするのかが規定されていなく、自由主義を嫌っていた国王にビスマルクが取り入って軍事予算が増大していった歴史があります。
また、驚くことに、日本では、自民党憲法改正案99条には次のような文言がみられます。
「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる(後略)」
これはまさに、全権委任法(ナチス)と同じ効果を持つ、恐るべき案です。
世界首都ゲルマニア:ドイツ首都ベルリンが広く国内外で「世界の首都」と讃えられる様、アドルフ・ヒトラーがグランド・デザインを考え、建築家アルベルト・シュペーアが細部デザインを任された都市改造構想である。戦時下であっても土地収用や工事は並行して行われていた。
TBSラジオ Session-22
麻生副総裁発言に関して
「ナチスドイツについてーあの時代から学ぶ教訓とは」 東京大学教授 石田勇治教授
【ナチス政権は選挙で過半数を取っていない少数派内閣なのに巨大な権力を手にいれたか】
ナチスは、自由な選挙で過半数を取ったわけでない。(麻生発言:ドイツ国民が選んだ)
ナチスが政権を取ったあとの選挙では介入したにもかかわらず44%しか取れなかった。
32年の選挙、ナチス33% 保守党8.5% ナチスは、保守政党(産業界や農業団体の後押し)と共闘
合計でも過半数はない。議会に多数でないのにどうして政権をとったのか?
このような政党がワイマール共和国に代わりナチス政権に移行した ここが重要な こだわり。
ワイマール共和国の憲法では、首相は国会で選出され、ワイマール共和国大統領により任命。
ワイマール共和国の末期は政党が対立して多数派で連携することが困難になったこの状況で大統領が介入。
大統領は国民により選ばれるが、大統領緊急令を出せる。
当時の大統領は軍人上がりのヒンデンベルク(78)保守系の偉い人。 彼は民主主義に対して反感を持っていた。
共和国の危機のとき、自分の意に合う政治家を首相に任用する。
ヒトラーの前の3人の首相も議会に基盤がなく、彼らは民主主義憲法に反感を持っていた。ワイマール憲法の解釈改憲や無効化を狙っていた。
そして、国会での議案の可決が激減して大統領緊急令の可決が多くなる。(議会無視) ナチスもこのシステムを狡猾に利用するタイプ。
ナチスの台頭の背景。未来に対する閉塞感。原因は米国発の金融危機でドイツから資金を引き上げ、倒産、失業の激増。
対外関係もベルサイユ条約で過酷な戦後賠償金。軍備の制限、参謀本部の解散、領土の割譲で残留ドイツ人問題。 これらがドイツの足枷と思う。
内政でもワイマール憲法はすばらしいが、実際の政治は党利党略に走る政治。13年で政権交代が9回。
緊縮財政で増税でデフレにするから、国民は困窮する。国民はなんとかしてよ!
マルクス主義などもあり政治の方向性が各党全く違い融和できない。共産党から見るとワイマール共和国はブルジョア的国家。
また、共産党と社会民主党は仲が悪い。共産党は資本主義の打倒が目標だがそのためには社会民主党を叩き潰せ。(現在の日本共産党は護憲)
選挙協力ができない(議会で多数派を取れるのに) 今の反自民が維新や共産に票が流れるのと同じ。
(イタリア在住のリスナーから毎日どこかのマスコミでナチスをやっている)
ヒトラーが反ユダヤで票を得たのではなく、現状をぶっ潰す(heibay 注:小泉や維新やんけ!)先の展望はあまり言わない。
政権をとってから学者など使って国つくりを変えていく。保守党はヒトラーを飼いならすと言っていた、
それがあっという間に打ち砕かれる。国会議事堂炎上を利用した大統領緊急令、全権委任法で保守勢力の甘い思いを打ち砕く。
ナチ党は国会議事堂炎上を共産党による国家転覆の陰謀と断定、共産党国会議員を逮捕。他の共産党員を弾圧。
ヒンデンブルク大統領が民族と国家を防衛するための大統領緊急令を発布。
言論の自由、結社の自由、等の人権を当分の間という語句を入れて停止。
ナチスは共産党を潰し権力を掌握、保守党は共産党を潰すことを望んでいた。
全権委任法の前に選挙があった、この選挙が重要。全権委任法は政府に立法権を与える(普通、立法権は議会)
政府が立法権を持つことは、なんでもできてしまうこと、近代立憲主義を否定する。
憲法改正の手続きはワイマール共和国憲法では国会議員の3分の2以上の賛成。
だけど議席が取れない、なので共産党議員を収容所に入れて国会議員の資格を剥奪し、国会議員の母数を減らす。
この国会では社会民主党のみが反対。社民党党首オットー・ヴェルスの有名な演説があった。
選挙は弾圧的。 全権委任法の国会での審議の時、ナチ党の突撃隊員(補助警察という地位)が入ってくる。
ベルリンの警察権力をナチ党が握り、共産党員を逮捕、普通の取り締まりが出来なくなる。
補助警察を作り、ナチ党の突撃隊員を採用して、国会に入れるので、議員が震え上がる(共産党議員の例もあり)。
これで、国会議員の3分の2以上の賛成。国会の意味がなくなる、なんでも出来る。
麻生発言で、ヒトラーは民主主義によって議会で多数を握って出てきた いかにも軍事力で政権を取ったように思われる
全然違う ヒトラーは選挙で選ばれた ドイツ国民はヒトラーを選んだ
合っている部分と合っていない部分がある。
社民党党首オットー・ヴェルスの有名な演説「こんな横暴を許さない、君たちは必ず罰を受ける」
ヒトラーは「あなた方の票は要らない」と発言。
全権委任法は、恐ろしく、憲法に違反することが出来ると書いている。憲法そのものの無効化。
ナチスが政権を掌握すると、選挙は行われない。3~4年でヒトラーの支持は うなぎ登り。
原因には失業問題の解消。公共事業をドンドンやっていく。再軍備、減税、持ち家政策。戦争準備をする。
経済の大盤振る舞い。国の赤字はドンドン増える。軍事費は予算の半分。
それまでの、ドイツ指導者が出来なかった、ヒトラーはベルサイユ体制(外交的な制限)を突破する。
政権掌握の最初は平和主義を言っていたが、翌年34年ぐらいから覆し、35年から徴兵制。
国民はベルサイユ条約で虐められていたのに対し物を申す人が出てきた。外交的な勝利をあげていく。
英仏はベルサイユでやりすぎた負い目があった。なので融和的になっていく。
第1次大戦前には、ドイツ・オーストリアで民族自決で1つになる約束があったが、38年に実現。
それまで不可能とされていたベルサイユ体制を見事に突破した。
ヒトラーは国民が欲しがっていたものを与えたが、その中の国民でも優勢思想で排除もしていった。
【国際社会の中でのナチスの位置づけ】
国際社会でナチスを評価することは全くありえない。
ナチが支配していた時代、ヨーロッパで何が起きたかが重要。
なぜ、あんなことが起きたか。どうしたら防げるかかが、戦後の我々の課題。
ドイツでは、ナチ時代のすべてがネガティブとは考えていなかったが、
時代が代わり新しい人々の人権意識、成長があり、ナチズムが酷いものだと思うようになてきた。
70年代ぐらいから、ナチ時代は不法の時代だったという評価。国外にアピールするためにも
ナチ時代に失った国際的な信用を取り戻すためにも、ナチスのやったことの謝罪や補償をやっていく必要があった。
それを通してドイツは初めて信頼されるようになってきたと言える。
ドイツも日本と同じように、戦勝国に占領、それも4カ国(米・英・仏・ソ)A級戦犯、各地区でB・C級戦犯を裁かれる。 ただし、ドイツではドイツ刑法でもナチスを裁く。
国際社会はナチスを止められなかった、ナチスの外交を多めに見てしまった。
なので、民主主義を否定する動きがでるとヨーロッパではどこでもそれを問題にされる。
ドイツではネオ・ナチが出てくると国内的にも国際的にも問題にされる。
ドイツではナチスを肯定的に語るだけで罰せられる。
言論の自由が否定され取締りが適切かの問題がある。
しかしながら、ナチスを礼賛したり、ホロコーストの否定はナチスの礼賛。
そういう思想が広がること、極右やネオナチが喜ぶ、ドイツはそう事態を絶対に避けたい。発言の一個一個が敏感になっている。
若干のニュアンスでもそっちの方向に加担するかの表現があればそれに対し批判したり応答したりする。
そういうニュアンスの表現をしただけで、政治生命を絶たれる。
石田先生:麻生副総理の発言は軽率だっただけではすまない。本当はきちんと謝罪されたほうがいいと思う。
ナチスによりどれだけの人が酷い目にあってきたか。600万人のユダヤ人の虐殺は全体の部分でしかない。
それ以外にも多くの人が犠牲になっている。
負の象徴のような政治に対して誤解であったとしてもポジティブな語りであったとしたら、被害者の思いを馳せる。
「学ぶ」って言葉がある以上、意義を見出してるという事であるし、本音が出ているって言ってる人もいる。
安部政権はナショナリズムが強い政権が誕生したと世界の中で見られている、
それからナチスの言説は本人の意図とは別に、誤解する余地があり、どのように受け取るかだけで受け取る側の本人たちがネガティブに受取るとナイーブに燃えるような問題。 発言すべきではなかった。
ドイツでは厳しい報道があった。元首相で副総裁ということを書きながらナチを肯定的に表現した。
そして撤回したこともドイツの新聞では書かれている。
前半では、あんなドイツでもナチスが生まれたと否定しているが、ナチスの手口を学ぶというのを皮肉であれユーモアであれ言われた
そのあと、「民主主義を否定するわけでないが」が、否定される発言と取られると自覚があったのではないか。
当時のドイツと今の日本の類似点:閉塞状況は似ている。それを突破する強い政治が求められている。憲法問題は大きい。
法の支配は重要だが、ナチスの支配も「法の支配」。法を過信してはいけない。 歴史は法の過信を戒めている部分がある。
法は万全ではない。そのためには我々が見張る環境が重要。
3分の2があってもナチスが誕生したから、だから下げてもいいのか?厳しくしないといけないのか?教訓もまたずいぶん変わる。
戦後ドイツの基本法は58回変わっている、それをもって日本の憲法は1回も変わっていないというのは問題。
戦後の西ドイツには憲法がない、なぜ基本法というのか?
東西ドイツに分断されるとき、英米指導者は、ドイツに憲法を作りなさいと言うが、
西ドイツ指導者は「今、自分たちは憲法を作る状況ではない、東ドイツと分断されているので憲法を作ると分断が固定化されてしまう」
それなので「憲法」という言葉を使わずに「基本法」という法律の最も出発的なものを作ったので憲法として出発したのではない
精々、それは暫定憲法。ドイツの基本法は細かくて分厚い。日本のような大きなものではない。
ものすごく細かく、細部にいたるまでいろんなことを決めている。
もともとが分断国家がどのようになるか分からない状態で作ったのが「基本法」
だから初めから変えていくことが想定されていて、58回変えているから、それを引き合いに出して日本の憲法は変えなくてはならないとは全く異なる。
しかもこの基本法は、変えてはいけないところがある。
第1条と第20条は変えてはならない。
第1条 人間の尊厳は不可侵であり、それを擁護することは国家権力の義務である。
つまり、基本的人権を最も尊重し、すべての国家権力、行政でも裁判でもそれに縛られる。
第20条 ドイツ連邦共和国は連邦制の社会国家である。社会権がある。
基本法が出来たとき統一したときに憲法を作りましょうになっていたが実際には作らなかった。
基本法が西ドイツで十分に機能して、民主主義の案体に貢献してきた。これを統一したからと言って今さら別のものにする必要はない。
必要なところだけ変えていっている。
ナチスの教訓からだけでなく、ナチスの政治体制も含め様々な教訓。
(関連)
ナチス党大会跡・証拠記録センター 【2011-6-9】
「自民党の憲法改正案の問題点」 想田和弘監督解説 【2012-12-11】
人権とは自民党から与えられるものなのです。 【2012-12-9】
by heibay
| 2013-08-08 06:52
| 旅行
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