ユダヤ人を大きく分けると、
スファラディー系ユダヤ人(セム系) と
アシュケナージ系ユダヤ人 がいる。
スファラディー系ユダヤ人
前17世紀ごろトルコでヒッタイト帝国が生まれる。
前13世紀、エジプト第19王朝のラメセス2世の時代は新王国は態勢を立て直して国力を回復し、西アジア(シリア)に進出を積極化させた。
ラメセス2世は前1286年、カデシュの戦いでヒッタイトを破り、シリアの領土を確保した。
『出エジプト』前1200年ごろ、貧乏なエジプト人(= スファラディー系ユダヤ人の先祖、つまりエジプト人)を領土保持のために、パレスチナの地に入植させた(大日本帝国の満蒙開拓団のようなもの)。当然、先住民のパレスチナ人が住んでいるのだが。
シナイ山で神ヤハウェと契約を結んだ「十戒」の石板。神殿の丘に至聖所を作り、石板を納めた「聖櫃(アーク)」を納めた。(インディージョーンズの「失われたアーク」)
(第一神殿時代 BC1000年頃~BC586年)
前1000年頃、エジプト新王国の衰退、アッシリアにイラン高原からエラム人が侵入、エアーポケットが生まれる。パレスチナにダヴィデ王の統一国家、神殿の丘の南にソロモン王宮殿が建てられる。
紀元前586年(バビロンの捕囚)ユダ王国の首都イェルサレムが新バビロニア王国のネブカドネザル王によって征服され、住民のヘブライ人は、バビロンに移住させられ、
バビロニア軍は、今回はエルサレムを徹底的に破壊し、エルサレムへの神の加護の象徴であった神殿にも火を放った。
およそ50年の捕囚生活の後、新バビロニアがアケメネス朝ペルシア帝国のキュロス2世によって滅ぼされた前538年に解放されてパレスティナの地に戻ることが許された。
優れた頭脳を持ったヘブライ人は、新バビロニアがアケメネス朝ペルシア帝国の官僚になり、王朝経営や金融の伝統が始まる。(宮廷ユダヤ人)
(第二神殿時代 BC539年~AD131年)
アケメネス朝ペルシアのキュロス2世は前539年にバビロンを征服し、翌前538年に勅令を発布し、ユダヤ人のイェルサレムへの帰還と神殿の再建を許可し、
さらに戦利品としてバビロンに没収されていた神殿の器物を返還し、神殿再建のための財政援助を約束した。こうして約50年に近い捕囚の生活を終わり、帰還民が続々と出発し、
イェルサレムを目指した。
前40年、ヘロデは親ローマ派として自らローマに赴き、アントニウス(クレオパトラと良い仲)に取り入って、元老院からユダヤ王の地位を与えられた。
その後、前37年にハスモン家を滅ぼし、名実ともにユダヤの王となり、ハスモン家の娘と結婚した。
ローマでアントニウスに代わりオクタウィアヌスが権力を握ると、直ちにそれに取り入って、権力を保障された。
ヘロデはイェルサレム神殿を大改築して壮大な神殿に造り替え、ユダヤ人の歓心を買うことに務めたが、ユダヤ教徒のローマ化に対する反発も強まった。
ヘロデ王の息子が、イエスの時代。
ユダヤ戦争(帝政ローマ期の66年から74年まで)ユダヤ人がローマに向かって起こした民族解放戦争。
第2次ユダヤ戦争(131年)はローマ皇帝ハドリアヌスの派遣したローマ軍によって鎮圧された。
これによってユダヤ人は地中海各地に離散(ディアスポラ)していくこととなった。
もともとパレスチナに移り住んだエジプト人の子孫である。いわば、正当なユダヤ人で、ローマ帝国により、パレスチナから流浪の民になり地中海沿岸に住みました。 この末裔がスファラディー系ユダヤ人。
これに対し、アシュケナージ系ユダヤ人は、レコンキスタ(スペイン語: Reconquista)は、718年から1492年までに行われた、複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ここから、ギリシア経由でハザール王国に逃げ込み、8世頃に出来たハザール王国の国王がどの宗教がすばらしいかを聞いて、ユダヤ教を国教にしました。この過程で、トルコ系ユダヤ人が発生した。 アーサー・ケストラーは後者が殆どだとの説を取っています。
また、ポーランドを1320年に即位したヴワディスワフ1世が再統一した。次のカジミェシュ3世は、リトアニア、ウクライナなどを支配下に収め、西ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人を保護し、移民も奨励した。このため、ポーランドは発展しヨーロッパの大国になった。
地中海沿岸に移住したスファラディー系ユダヤ人は、ベネチアなどでは、黒い貴族として、 宮廷の官僚として発揮しました。 そしてバックダッドに渡った中で サッスーンは、トルコで財務大臣をして、子孫のデビッド・サッスーンは、ボンベイから中国へ阿片の専売権を英国から獲得しました。 またスペインの地中海地域のユダヤ人は、スペイン・ハプスブルク家の弾圧で(1429年 ユダヤ人のイベリア半島からの追放)、ブラジルからアムステルダム ニューヨークに渡りました。
現在のイスラエルを構成しているユダヤ人は、アシュケナージ系ユダヤ人で、こちらは、米国でも金融、政財界で主要な地位を持ち、イスラエルを応援し、世界中で悪さをしているのです。
そして、今回の金融で失敗したのが、アシュケナージ系ユダヤ人であり、 また、米国がテロだといって攻撃する相手は、イスラム教に改宗しているが、パレスチナに住んでいたユダヤ人の正当な子孫を狙っているのかもしれません。
絵:ピーテル・ブリューゲル(父) 美術史美術館
そして、映画俳優であり カリフォルニア州知事の アーノルド・シュワルツェネッガー
Schwarzenegger 黒い黒人の意味、これユダヤ人の名前。 父グスタフはナチス党員。突撃隊員だったが、アーノルドが生まれる3年前に除隊している。 父親がナチス党員ってことは、キリスト教だろう。
2015年7月5日 追加
ユダヤ戦争 (帝政ローマ期の66年から74年まで)
ローマ時代、ユダヤ人はエルサレムを中心とするユダヤ属州においてある程度の自治が認められていました。
初期のローマ帝国は宗教に対してとても寛容な政策をとったことが知られています。しかし、多神教を信仰していたローマ人に対して反感を持ち続けたユダヤ人らは、反乱を起こし、やがてローマ軍によって攻め滅ぼされてしまいます。これも旧約聖書に描かれるユダヤ人の歴史です。
離散ユダヤ人の状況 (紀元100~300年)
ユダヤ戦争後、ヨーロッパのユダヤ人は離散してヨーロッパ各所に小さいコミュニティを形成していきました。
ユダヤ戦争は、ユダヤ人のヨーロッパにおける離散の原因となりました。その後、ユダヤ人は各地で追放されたり迫害にあうたびに、移動するという性質を持ちます。彼らは国土を持たず、「土地を大切にする」という考えかたよりも「自分たちが迫害から逃れる」という考え方を強く持つことになったのです。
ヤムニア会議
90年代神殿を破壊されてしまったユダヤ人、エルサレムの陥落から逃れたダヤ教の指導者たちは、ローマ帝国当局の許可を得て、エルサレム西部の町ヤムニアにユダヤ教の研究学校を設けました。
ユダヤ教学校に集まった学者たちが長い時間をかけて議論し、聖書(ヘブライ語聖書)の正典を確認していくプロセスを行います。 これが歴史上ヤムニア会議として知られる出来事です。
実は、ユダヤ戦争でエルサレム宮殿が破壊されるまでは、キリスト教はユダヤ教の一分派という位置にありました。ヤムニア会議というプロセスを経て、「正典」ではない聖書を信じるキリスト教は完全にユダヤ教からは切り離されることになったのです。
新約聖書は、旧約聖書より、とくに律令が大幅に甘くなっています。
旧約聖書『あなたは殺人をしてはならない。あなたは姦淫を犯してはならない。』
↓
新約聖書
『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなた方は聞きました。しかし,わたしはあなた方に言いますが,女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです。』『すべて自分の兄弟を憎む者は人殺しです。』
新旧でこのように表現が変更されました。旧約聖書が非常に厳しいルールを課しているのに対して、新約聖書が多くの言い訳の余地を与えていることが分かります。
「カネを賤しいものとする、隣人を愛せと説くのは、封建社会の権力者にとって都合の良い考え方」
キリスト教は、金を賤しいものとし、隣人を愛せと説きます。実はこれは仏教などの国際宗教にも共通する特徴です。一般に、権力者が宗教を利用して統治するためにそのような宗教が便利だからです。このような説明は、やがて信仰が衰えても私たちの文化の中に深く根付いています。
「キリスト教は、権力者が利用できる宗教への修正を行った」
キリスト教は、国家に従属しやすいように進化していきました。このような変化は、イスラム、仏教、ヒンドゥー教にも見られます。うまく権力に適応できなかった宗教は多くの場合迫害されて絶滅してしまうのです。しかし、ユダヤ教は、普通の国際宗教とは異なる道を歩むことになりました。
「力に馴染む宗教・権力から逃れる宗教」
実はキリスト教に限らず、仏教やヒンドゥー教も時の権力に対応する修正や適応が自然と発生しています。例えば日本では仏教が権力にとって使いやすいように取捨選択され、変更されていく歴史があります。これはほとんどの国際宗教で起こることです。
しかし、ユダヤ教は特殊な道を歩みます。常に迫害され続け、迫害されても知識や文化・宗教が守られるように宗教自体そ修正していったからです。結果的に、宗教の発展が封建時代の権力から距離を置き続けることになりました。
これは国際宗教として長期間存続する別の道であったといえます。
「迫害と逃亡に適応するためにユダヤ教が獲得したもの」
・教育システムとしての宗教 - 知識や経験は命ある限り奪われない究極の財産でした。
・紙幣・手形の発明 - 価値のない紙きれを貿易の証書として使い始めたのです。
・保険の発明
・株式の発明
・ 会計技術の発達
ローマ帝国が成長し、まさに最高潮のとき、インノケンティウス3世はユダヤ人による金融業を明確に制限します。その背景には、許容できないほど容易にユダヤ人が貴族や聖職者を借金によって支配してしまうという構造があったためでした。
12-13世紀頃以降、キリスト教世界では、ユダヤ人ら少数派に対する寛容が失われたと考える研究者もいる。
第4次ラテラノ公会議(1213年4年4月)において、キリスト教会は自らの統一のため、敵対するものを明確化した。ユダヤ人は教会に敵対するものとされた。
ユダヤ人はそれとわかる身なりをするよう求められ、他にも多くの制限が課されるようになった。またこのころから、ユダヤ人は聖書時代とは変質しており、もはや彼らに寛容にする理由はないとの見方も広まったと言われる。
ユダヤ人がキリスト教徒を使用人として雇うことを厳禁した
当時、ユダヤ人は共同出資会社という形態をとってキリスト教徒を利用していた。表看板を担当するのはキリスト教徒、実質的経営者はユダヤ人という経営スタイルで金融業を営んでいたのである。
そのため、問題が起きない間はユダヤ人経営者が利益を上げ続け、問題が起きると表看板を持つキリスト教徒が罰を受けるという事態が生じていた。
北イタリアでユダヤ金融を乗っ取るたのが、ロンバルディア人
1200年頃のザンクトゴットハルト峠 の開通(スイスが金融国家になる足がかり)
1275年、エドワード1世がユダヤ人法令を発布、イングランドで「ユダヤ人指導者」が高利貸しを営むことが禁じられた、実質的にはユダヤ人の貸金業を制限することはできなかったため
1290年、エドワード1世がユダヤ人追放令を発布、イングランドから全てのユダヤ人が追放されることになった。
1306年 フランス 国外追放
1307年10月13日(金)テンプル騎士団壊滅
1370年 ベルギー 国外追放
1380年 スロヴァキア 国外追放
1394年 フランスから永久追放
1420年 オーストリア 国外追放
1444年 オランダ 国外追放
1492年 スペイン 異端審問はじまる
1495年 リトアニア 国外追放
1498年 ポルトガル 国外追放
1540年 イタリア 国外追放
1551年 バヴァリア 国外追放
「ゲットー:ユダヤ人強制隔離のはじまり」
はじめてゲットーと呼ばれるようになったユダヤ人隔離居住区はヴェネツィア共和国のヴェネツィア・ゲットーである。
1555年には反ユダヤ主義者のローマ教皇パウルス4世がヴェネツィアのゲットーを真似てローマ・ゲットーを創設した。
ヨーロッパ中でユダヤ人の隔離政策が取られるようになっていき、ユダヤ人隔離居住区は教会から離れた場所に設けられることが一般化した。
この頃にできたユダヤ人隔離居住区としてはフランクフルト・アム・マインのユーデンガッセやプラハのヨゼフォフが特に有名である
「商業都市の発達」
貿易・金融の中心となる港街が発達しました。16世紀のアムステルダムの地図です。ローマカトリック教会の力の強かったスペインやポルトガルなどの国々はユダヤ人を異端審問にかけていましたが、やがてオランダ、そしてイギリスの宗教改革の流れに乗ってユダヤ人も移動していきました。
80年戦争でオランダがスペインから独立するとともにアムステルダムはユダヤ人を擁する金融と貿易の中心地として発達しました。その後、オランダのユダヤ人商人らはイギリスの清教徒革命を支援し、やがてイギリスのユダヤ人追放令を廃止させることにも成功します。イギリスへのユダヤ人流入もこのころから始まりました。こうして、一旦西ヨーロッパで制限されたユダヤ人の活動は再び活発になっていきました
黒人奴隷貿易に、深く関わったのはユダヤ人の商人でした。
「市民革命の時代(17世紀~18世紀)」
イギリス革命(清教徒革命・名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命は、「市民革命」と教科書で学ぶ。同時に「ブルジョア革命」とも呼ばれることは有名だ。ここでいう市民とは、「王族ではない」と言っているに過ぎないことに注意する必要がある。教会から王族に支配が移った15世紀以降の社会で、貿易で富みを拡大した資産家階層が成長すると、彼らが新しい権力者として台頭する。市民革命とは、王族から政治を取り上げ、資産家が有利な政府を作ろうとした運動であると言うことができる。
宗教上の特徴、置かれていた社会的地位への適応から、長い期間の間に、非常に資本主義社会で優位になりやすい文化的特徴を持つ集団に成長した
ポグロム (アシュケナージ系ユダヤ人)
13世紀のカリシュの法令によって権利および安全をシュラフタ(ポーランド貴族)およびポーランド王の庇護のもとに保障されたことから、ユダヤ人はポーランドに集まり生活していた。
1543年にプロテスタント運動の創始者の一人であるマルチン・ルターが著書『ユダヤ人と彼らの嘘について』においてユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱した。
17世紀ウクライナ・コサックのフメリニツキーの乱で起こったポグロムはその犠牲者の数で最悪のものとなった。
1795年の第三次ポーランド分割によりポーランド・リトアニア共和国が完全に消滅してその東部(旧リトアニア公国領)がロシアに併合された。もはや消滅したポーランド国家による庇護を受けることができなくなったポーランドやリトアニアのユダヤ人はハプスブルク家に庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人には裏切り行為と受け取られた。
1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロムが発生すると瞬く間にドイツ文化圏の全域に大規模な反ユダヤ暴動が広まった(へプへプ・ポグロム(英語版))。1821年、オデッサ・ポグロム(英語版)。
19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、ロシアで反ユダヤ主義のポグロム(1881年-1884年)が起こった。後にはロシア帝国をはじめ各国でユダヤ人殺戮のポグロムが盛んに行われた。
1905年、ロシアのエカテリノスラフにおけるポグロムで犠牲になったユダヤ人の子供たち
帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので助長されることになった。1903年から1906年にかけての度重なるユダヤ人襲撃はユダヤ人の国外脱出の引きがねとなりシオニズム運動を招くことになった。
ユダヤ人のアメリカ移住は5波(5つの波)にわたっており、それぞれ出身地と性格を異にしている。
最初にやってきたのは、第1章で紹介したように、カトリック教国のスペインとポルトガルから追放されたユダヤ人(スファラディム)だった。1654年、ブラジルを経由してニューヨークに到着した。
アメリカ独立後も、州によってユダヤ人に対する扱いは異なっていた。宗教的にこりかたまったマサチューセッツ州はユダヤ人を排除し、逆にメリーランド州は完全な信仰の自由を認めるといった具合だったが、やがてスペイン系ユダヤ人の多くは、企業家としてのたゆまぬ努力によって、しだいに経済的実力を蓄積してゆく。
ユダヤ移民の第2波は、1820年から1870年頃まで続く。これは主にドイツからやって来た。特に1848年の革命の敗北によってアメリカに避難したものが多かったので、彼らは「フォーティエイター」と呼ばれている。
第1波のスペイン系ユダヤ人が貴族だとすれば、第2波のドイツ系ユダヤ人はたたき上げのブルジョアになった。
スペイン系ユダヤ人(スファラディム)を中心としてきたそれまでのアメリカ・ユダヤ人社会に、ドイツ系ユダヤ人が合流した結果、以後ようやくユダヤ人口も増加が目立ち始めた。1848年には総数5万人、1860年代半ばには20万人に達していた。
ロシア国内で始まった「ポグロム」(ユダヤ人迫害)の嵐で、大量の東欧ユダヤ人がアメリカに流入することになったのである。ユダヤ移民の第3波である。まさに、どっと押し寄せてくるという感じでやって来た。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺が進行したが、このとき殺されたユダヤ人のほとんどはアシュケナジームであった。ヒトラーによるユダヤ人迫害が発生するまで、帝政ロシアは、間違いなく、ユダヤ人が最も大量に殺された国であった。
1880年に23万にすぎなかったアメリカ・ユダヤ人口は、1900年にはついに100万を突破した。20世紀初頭までに総数280万人に達する莫大な数の東欧ユダヤ人がアメリカに流れ込んだのだった。
アメリカの歴史に詳しい野村達朗氏(愛知県立大学外国語学部教授)は、次のように述べている。
「東欧系ユダヤ人はドイツ系ユダヤ人とは著しく異なっていた。中産階級化し、宗教的には改革派ユダヤ教を奉じ、英語を取得して急速なアメリカ化を遂げていたドイツ系ユダヤ人はアッパーイーストサイドやアッパーウェストサイドの優雅なアパートメントに住んだ。これに対して、東欧系はイーディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒で、極めて貧しかった。
両者は風俗習慣も異なり、この時期には別々のコミュニティーを形成した。2つの種類のユダヤ人はそれぞれ『アップタウン・ジュー』、『ダウンタウン・ジュー』と呼ばれるようになった。」
ユダヤ人のアメリカ移住史(3)2015-3-28
アメリカヘのユダヤ移民の第4波は、1933年、ナチス・ドイツの成立とともに始まった。
ドイツとオーストリアから25万のユダヤ人がアメリカに来た。当時、アメリカは移民の受け入れを制限していたので、数はそれほど多くはない。しかし、この時やってきた人々には科学者、作家などが多く、アルバート・アインシュタインなど、20世紀を代表する知識人が混じっていたのが大きな特徴であった。
知的職業に進出するユダヤ人は、ただでさえ多いというのに、このユダヤ移民の第4波によって、アメリカのアカデミズムはユダヤ人の聖域と化した。
ところで、アメリカのユダヤ人口は1925年で380万人、第二次世界大戦中の1940年時点で480万人となり、世界一のユダヤ人社会となった。
現在、世界のユダヤ人総人口は約1400万人、そのうち大ざっぱに言うと約600万がアメリカ、約500万がイスラエル、約100万が旧ソ連に居住し、フランス、イギリス、カナダ、アルゼンチンに数十万単位、残りは数十から数万の単位で世界の国々に分散している。つまり約43%のユダヤ人が、アメリカ市民になっているのだ。
(引用終わり)